ローマ内の貴族の勢力争いに強く影響を受ける不安定な立場でもありました

当然、イエズス会が成し遂げたことを、他の修道会、たとえばフランシスコ会も羨望の眼差しで見つめていた。
一六00年に法王クレメンス八世はすべての修道会に日本での宣教活動を正式に認める宣言をすると、ヴァリニャーノが意図しなかった別なやり方で布教が始まってしまう。
とにかく、イエズス会に追いつけ追い越せの勢いだったからだ。だが、キリスト教という同じ神をもちながらも、宗派によって規則が違っていたことが後で障害になった。
それが日本のキリスト教迫害につながった一つだという見方もある。
たとえヴァリニャーノは神社仏閣を壊すことをまったく意図していなかったにもかかわらず、彼ば、これはの息がかからないところではキリスト教徒が闇雲に仏教徒の建物を壊す行為があった。
当然周囲に反感を与えてしまう。事態は悪化してい一五九○年、五一歳になったヴァリニャーノが二度目に来日を果たすと、キリスト教徒を迫害し始めたからでた。
豊臣秀吉は天下を統一し、キリスト教改宗に反対し、あるキリスト教徒の娘たちが賢くなり、秀吉と夜を過ごす慣例に背いたとか、その理由は、秀吉が訪問したポルトガル船でワインを飲み過ぎてしまったとか、キリスト教を毛嫌いした相談役せの言葉を秀吉が真に受けたとか、諸説はいろいろある。
の徳運施薬院全宗では、織田信長が天下を取ったときに、ヴァリニャーノが企画し、ヨーロッパに送り込んだ天正少年使節団の四人の少年たちは、その後どうなったのだろうか一五八五年にローマで法王グレゴリウス一三世に謁見し、ローマ市民権を与えられた。
さらに、四人はグレゴリウス一三世の後を継いだシクストゥス五世の戴冠式にも出席するのだヴァリニャーノが送った使節団は、どの国でも心から歓迎され、国賓級のもてなしを受けたと伝えられているヴァリニャーノは子供のように大事に育てた四人の日本人少年たちが、大志を抱いて日本に帰国し、そして活躍してくれることを願っていただろう。

もとから日本からの留学生も多い街だ

ラクイラと同じ程度だろうか

なぜならば、かつて彼は日本人の子供たちにつぃてこう綴ったからである「日本の子供たちの理解力はヨーロッパの子供たちより優れています。
彼らは我々の教義を理解する十分な能力があります」だからこそ、その少年四人はヨーロッパの土を踏んだとき、天に浮かぶ別世界の体験を日本に伝えようと必死であった。
語学はもちろんのこと楽器を弾くことを含めてあらゆる学問を身につけて八年後に日本に戻ってきたのである。
じゅらくだが、帰国すると天下は豊臣秀吉のものになっていた。秀吉が建てた政庁兼邸宅である聚楽第に赴き、彼の前で西洋から運んだオルガン、ハープ、リュート、ヴァイオリンの四種類で彼らはジョスカン·デ·プレの曲を演奏する。
だが、キリスト教毛嫌い秀吉のの気持ちは変「キリスト教布教禁止命令」わらず、日本に帰国後の四人の運命は一転してしまう。
を出しキリスト教徒を迫害していたからである。一人は追放後にマカオで死去。天吊り一人はによって殉教、一人は長崎で死去。最後の一人は婪帯し仏教に改宗してしまった。私は聞いてはいけないことを最後にヴァリニャーノに尋ねた。「ヴァリニャーノ神父さま、故郷のキエティにどれほど戻りたかったことでしょうか」人は生まれ落ちた瞬間から、個人という旅を続けなければなりません。
だが、私も人間です。一度や二度ではありません。両親や羊の肉が恋し故郷へ戻りたいと孤独の中で泣いたこともくなったことも数え切れません。
長い船旅で食べ物が腐り、悪臭が漂い、病気にもなりました。ですが、神に仕える私は我慢ができた。私の強い心と体は、あのグラン·サッソ山で鍛えられたからです。私が日本人のあなたに伝えたいことは一つです。

 

ローマで一番有名なのはサン·クレメンテ教会の地下にあるものだよ


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人生の最後に残るものは愛と信あなたは希望があったからこそこのアブルッツォまで来られ仰と希望であるということです。
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この世の表も裏もすべて知り尽くした知恵と意志の人だったからだ。
彼は、マカオで一六○六年に亡くなる。六六歳であった。東洋に三三年間滞在し、三度日本を訪れ合計九年以上も日本に住んだ。
飽くことを知らぬ執筆家であった。数奇な運命を辿ったがゆえに、二度と踏むことが愛した美しい故郷の土をできなかった。
四00年以上経た今も、その深い彼の悲しみだけは、どうしようもなく私に迫ってくる。
この日、西の空が一面に真っ赤であった。アドリア海に落ちる夕焼けは明日への希望につながった。あとがきいばら姫の物語呪いにより100年の長い眠りにつき、王子の助けで目を覚ますという王子がありますが、私はまるでになったような気持ちでこのアブルッツォ州に取り組んで回文の謎解『ダ·ヴィンチ·のように、カペストラーノで見たきました。
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ミラノ生まれの我が次女里奈も生後2カ月ほど経った頃から
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イタリアと大分違う

ローマ帝国がイタリア語もし本書に誤りがあればそれは私ひとりの取材に基づいて資料を読み込んだつもりですが、責任です。
本書を執筆するにあたりご協力くださった多くのイタリア人の方々に心より感謝申イタリア文学研究イタリア文化会館元館長のウンベルト·ドナーティ氏、し上げます。
特に、担当ニオイ氏、音楽家のルカ·チュホレッティ氏には大変お世話になりました。
者のマルコ·「カバーページはやっぱりロッカ·カラッショしか頭に浮してくださった編集長小穴康二氏の真摯で粘り強く、イタリア大好き人間の編集かばない」の言葉に氏の熱い思いを感じました。
私が本書に取り組む最後に、者安藤菜穂子氏が本作りに精力的に取り組んでくださいました。
日本ではまだ知られていないアブルッツォの旅のおもしろさをできるだけ多気になったのは、アブルッツォに興味を覚えた読者がこの後くの人にわかっていただきたいと思ったからです。
アブルッツォを巡る旅に出かけてくださればこんなにうれしいことはありません石川康子二〇一三年四月吉日

イタリアでこんにちは

ボンジョルノは魔法のことばイタリア語でボンジョルノと言えば挨拶で、通常はにちはでは解せない場面が出て来ます。ちなみに英語の系言語には存在しないようなのは不思議なことです。
おはようとかこんにちはと言う意味ですが、実際にイタリアで聞いているとどうも単なるこんグッド·モーニングにあたる言葉は、イタリア語のみならず、フランス語·スペイン語などのラテン朝出かける時に、ホテルのエレベーターで別のお客さんに出会ってボンジョルノ。これは判りやすいですね。
人ごとながら心配していたら

イタリアを訪れた人は誰でもすぐに気づく事だが

日本語のおはようそのものです。乱するのは、なぜか別れ際にもボンジョルノが出て来ること。例えばお店で買物をして、帰る時にボンジョルノと言われたりします。
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ミラノのタクシーは安全かと聞かれることがよくあった