それがアブルッツォ州で作られていると知ったからには是が非でも行きたくなった

伝説の霧の向こうに霞んでしまった港は、アトリ専用の港だったというわけである。
現在そこにはビネトという新しい町ができている。その遺跡の写真を私はこの次に行く町ビネトで見ることができた。それは後述したい。アンドレア·デリティオのフレスコ画アトリにはもともとサビニ人という先住民が住んでおり、ローマ人に征服されるのは紀元前二九0年であった。
ローマ人の痕跡はこの町にもあった。ローマ人が造った1万人も座れる巨大野外円形劇場の跡地が一九九三年に発掘され、人びとを驚かせた。
黄金時代を迎えた当時の町はアドリア海での交易を基盤に発達し商業が栄えていたのだ。
アトリは古代からローマとアドリア海とを連絡する結節点の役割を果たしていたのだ。
ローマ帝国が崩壊した後、五世紀までこの町を支配したのはロンバルディア人だった。
その後ノルマン人が来たりと時代は流れ、落ち着いたのは一四世紀にアクアヴィヴァ家がこの町を自らの財力で再建したときからであった。
現在市庁舎として使われているパラッツォ·ドゥカーレはこのアクアヴィヴァ家の宮殿である。
広場にそびえ立つサンタ·マリア·アスウソタ大聖堂に入ると、そこには天井一面に立派な作者はアブルッツォで最も活躍した画家アンドレア·デリティフレスコ画が描かれていた。
であった。思わず嘆声が出るほどの美しさだ。その色彩は高貴で精神性を感じさせるものさだった。

  • イタリア語だミラノ通り
  • イタリア全てで当てはまるかどうかは定かでない
  • ローマ教皇との政治的対立が発生し

旅行先に提携会社があるかどうかを必ず確認しましょうこれを描いた当時のデリティオの画家としての情熱と技量に感服すると同時に、ルネッサンス期の傑作をアトリで見ることの幸せを感じた。
が鳴り響いた。外に出ると偶然にもアトリの鐘のものがたり私はもう一度あの昔話を思い出した。
アトリの鐘の内容はこうだ。王様の命令で広場の塔に大きな鐘が吊るされる。正しさの鐘といい、王様はこれをもしいじめられたり、辛い目にあわされたりしたら、誰もがこの鐘を鳴らせばよい、裁判官が裁定そして子供でも鳴らせるように綱を長くしたと付け加えた。
その鐘のおかしてくれると話す。げでアトリの町民は毎日楽しく過ごせるようになった、という話である。
アトリの鐘が近所の神社の鐘と重なって、子供の頃、一生懸命鳴らした思い出がある。
あの何に悩んでいたのだろうか。アトリの鐘時、何に困って、私の心を魅了したの童話の町を後にして次はアドリア海に向かっていった。
アドリア海のリゾートピネトまず地中海だろう。だが、アドリア海沿岸1日本人がイメージするイタリアの海といえば、ドイツをはじめとしたヨーロッパ各地からたくさ帯も、毎年夏にはイタリア全土のみならず、んの客が訪れるリゾート地だ。
アトリから一〇キロメートル離れた海岸にある町ビネトもアドリア海沿いの若い町であるアブルッツォのテラモ県とペスカーラ県、そしてキエティ県はアドリア海に面した地域を含んその海岸沿いに二0世紀に造られた小さな町その全長は約一二四キロメートルある。
でいて、がピネトだ。その町を知ったのは日本を出発する直前のことだった。銀行家が執筆した町の歴史東京にあるイタリア文化会館元館長ウンベルト·ドナーティ氏にアブルッツォの旅の計画をその知人がさらにピネトの副市話したところ、アブルッツォ州に住む知人を紹介してくれた。
長に連絡してくれたのである。人ごとながら心配していたら

 

ミラノを州都とする北

日本から私が来ることを知った副市長クレート·パリ-ニ氏は日曜日であったが市庁舎を開けて待っていてくれた。
この町の有力銀行の頭取エルネスト·イ日曜日は誰ジーンズに革のジャケットというラフな服装だった。
エッツィ氏も同席していた。というのが、普段着形式張らないイタリア式である。と会おうと二〇一〇年にピネトの歴史を自らまとめた分厚い著書をプレゼントしてくれたイエッツィ氏は、町に並々ならぬ愛情を注いでいた。
私が彼の著書の労作をねぎらうと、「仕事が終わって、家に帰るとすぐに執筆に取りかかり、夜中までという日々が何年も続き、妻執筆は苦しいいつ終わるのかってしょっちゅう聞かれましたね。
はあきれかえっていました。ですね」と苦笑しながら当時を思い出すかのように語ってくれた。盛りだくさんの写真とこの町の貴確かに長い時間を要したに違いない。
重な文化遺産の詳細な説明は、町の誇りは、と聞くと中心から11キロメートルほど離れたところにある海辺に点在するアトリで触れた古代ローマ時代に造られたチェラツノの要塞だと答えてくれた。
そして、「その港の写真がありますか」とイエッツィ氏に尋ねると彼海底に沈んだ港もさらに追加した。
そこに載せてありますと誇らしげな口調で教えてくれたは先ほど贈呈してくれた本を指し、海底の様子は柱の一部や石が横たわっているだけで、残念港の場所は航空写真でわかったが、海中写真の中で横たわる数々の石こそ、古い歴史のながらあまりよくわからなかった。
あるいは地下鉄に乗っても
金田俊之氏に偶然出会った
だが、生き証人であり、当時の繁栄をしのぶことができるものなのだ。
陽の沈むことなきといわれた大帝国を築き上げ一方、海から敵を見張る石積みの要塞は、たハプスブルク家の皇帝カール五世が一六世紀に建てたものだった。
アドリア海から侵入し当時は10キロメートル間隔で111棟もあったという。
この要塞は、現在は四棟だけ残っている。ようとするトルコ軍を監視し撃破するために必要だったのだ。ドイツやロシアの観光客も訪れるビーチどこアドリア海のパノラマが広がり、市庁舎を出て、目と鼻の先の砂浜を案内してくれた。
なまでも屏風のように立ち並ぶ松林のプロムナードが続いていた。白砂青松とはこのことである夏になると、広い砂浜にはビーチパラソルが等間隔に整然と続くという。
無料の公共ビーチもあるが、イタリアのビーチリゾートを体験するならば、パラソルとビーそれほど高くないの有料ビーチで過ごすことをおすすめしたい、とのことだ。
チベッド付き松林が名前の由来この町の歴史を尋ねると、ひとりの青年フィラニの手によって一九二○年代にできあがったと教えてくれた。
当時、海岸線にはフィラ11家の夏の別荘が一軒しかなかったという。
青年フィラニがローマ大学で法律を学んでいた時、第一次世界大戦が勃発し彼は出征する。
生きて帰るも、戦地でマラリアにかかり、その後の人生をこのピネトの町造りに捧げたのだった。

 

イタリアに到着して一週間も経たずに送って来る

この町の名前の由来であるが、世界に名を轟かせた詩人ダヌンツィオのラポッジャネルピ松」「ビーネにちなんでいるという。
という。雨の松林イタリア語で文字通りネトをからきている。
町の名はピンチョの丘ダヌンツィオの描いた松林は、ローマのにあるあの丈の高いローマの典型的な傘形の松であった。
フィラニと同時代を生きたダヌンツィオも同じアブルッツォ出身でピネトからさらに南下したところにある海岸沿いの漁港町ペスカーラ生まれである。
ダヌンツィオをこよなく愛したフィラニは、ピネトの松林をローマのそれに重ね合わせていたに違いこうして彼は教会、病院、学校を造り、町ができあがっていった。
だが、ホテル建設に目をそれから町のリゾート開発が始まっつけた企業の誘致は一切しなかった。
解禁は二五年後で、た。一九四〇年代のことである。現存する四つの要塞のほかに、そんなピネトの町を愛する銀行家イエッツィ氏の夢は、壊されてしまった残りの要塞すべてを復元することだという。
夢を語る彼の目は輝いていた。ブルー·フラッグが授与された美しい海優秀なビーチリゾートに与えられるブルー·フラッグを獲得したピネトの誇りは、きれいな海水だ。
とろりとしたやわらかな水が満ちた海がそこにはあるが、それだけではない。
ブルー·フラッグのお墨付きをもらうためには、多くの基準を満たさなければならないのだ。
リゾート客に対する交通システム整備や環境海岸のゴミの収集と廃棄分別を適切に行うこと、イニシアチブ、歩行者専用道路の設置もある。
こうしてようやく認定資格を得た海岸の町はあらゆる努力を将来に向けても課せられていくのだ。
洗練されたビーチリゾートペスカーラ朝起きてホテルのカーテンを開けると波の音が部屋まで聴こえ、目の前には一八0度のアドリア海の青い海が広がっていた。
部屋の前の道路を隔てたところは長く続く砂浜であった。乗馬を楽しむ人、犬と戯れるカッブル、一人で黙々とランニングする人、そんな光景が海というロケーションを得て一層輝いていた。
夏に無数のパラソルが並び、北イタリアやドイツから南下してくるこの浜辺を見れば、観光客が日光浴やさまざまなマリンスポーツを楽しむ姿が目に浮かんでくる劇作家ダヌンツィオの生誕地沿岸には特徴的な松並木が広がっていた。

イタリアから日本に直接帰国せねばなリません

このペスカーラもピネトと同様、ここにも白砂青松の世界があるのだ。
それは日本の熱海の海岸と実によく似ている。私は劇作家ダヌンツィオの生家を訪れることにした朝食をすませた後、ダヌンツィオは第一次世界大戦をはさみ、狂気イタリアで暴れ回ったの作家として知れわたっている。
その作家に憧れた一人の日本人作家がいた。三島由紀夫だ。ダヌンツィオの代死の勝利聖セバスチャンの殉教があるが、三島由紀夫の作品岬にて表的な作品に楯の会の物語は前者から霊感を受け、後者からは、の制服や自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーでのアジ演説に影響を受けているといわれている。
岬にての物語を読み、鳥肌が立った記憶がある。後でこの小説がダ学生の頃、私はその死の勝利を下敷きにしたことを知ったが、まさか、ヌンツィオのその舞台のアドリア海に来ることができるなど想像もできなかった。
三島由紀夫が描いダヌンツィオの小説の結末は、たのと同じ、二人の男女が断崖から飛び降りて死ぬのである。
愛し合っているはずの仲であっても相手が何を考えているのか結局のところわからない、人間はみな孤独なのだ、というようなテーマがそこにはあった。
なぜダヌンツィオがに勝利の栄冠をあたえたのだろうかとその答えは、このアブルッツォ州の厳しい山岳地帯にあったのではないかと思え考えたとき、てならなかった。
博物館となっているダヌンツィオが生まれ育った家を訪ねると、そこには、現在、観光客はいなかった。
それもそのはず、この日は閉館となっていたからだ。道路に面している広々とした庭を眺めながら、私はダヌンツィオに思いを馳せた。
すぐそこはもうアドリア海である。海の色はひたすら透明で水色であった。愛した女性と結婚し、そして離婚したダヌンツィオは後にスキャンダラスな生涯を送る。
何を伝えたかったのか。この海岸で何を感じ、何を思い、今回は彼の生家の佇まいしか眺めることができなかったのが、残念と言えば残念であったけれども、考えようによっては、また来てくれということに違いない。


人ごとながら心配していたら ローマ時代に遡る ローマ時代に遡る