イタリア人気質丸出しになることが多く

向けると、この場所からテラモ県が果てしなくどこからか、見張りのイタリア人戦士たちの鼓動が聞こえてくる気がした。
見渡せる。風の音だったのだろうか。いや、中世の人びとの息遣いが確かに宿っているのである。この古びたレンガ造りの城砦をこの足で歩ける幸せを感じて再び長いエスカレーターに飛び乗った。
ここをつわもの訪れれば、兵どもが夢の跡をしのぶことができるのだ。
男たちのカンプリ「スカラ·サンタ聖なる階段」チヴィテッラ·デル·トロントとテラモのちょうど間に位置する小さな町、カンブリに行こ「聖なる階段1スカラ·サンタ」うと決めたのは、の写真を見たからであった。
スカラ·サンタの思い出聖なる階段を訪れたのを思い出し、妙に懐かその写真を見た瞬間、三0年前にローマでしくなってしまったのだ。
カトリック信者が、全部で二八段ある大理石の階段の一段ごとにひざまづ跪いて祈りながら、一時間かけて上って行く姿に私は心を打たれた。
中には涙を流しながら上る信者もいた。見学するのが何か場違いだったという気恥ずかしさ宗教をもたない私には、があった。
眠っていた記憶の奥底からもう一つの懐かしさがよみがえってきたのそれと共に、懐かしさとは、昔、今から五00年ほど前に、その大学の授業で聞いた話である。
一人の若いドイツ人修道僧が憧れのローマの町に着き、心の悩みを打ち明けながら聖なる階段を跪いて上ったという。

  • フィレンツェに出張した時のこと
  • イタリア人が何人も受付に並んで文句を言っていたが
  • ローマの詩人ウェルギリウスが著したアエネーイスというのがあるが

イタリア語を喋るという点では共通している訳だからローマ社会においてはそのとき突然光が射し、「人は信仰によって生きる」彼はという言葉を聞くのだ。
その言葉を心のより所として、彼は帰国後に期せずして新しい教派を創始するこプロテスタントとになる。
と呼ばれる宗教改革を起こすマルティン·ルターの話である。聖なる階段は、伝説によれば、キリストの処刑を命じたユダヤ総督ピラローマにあったトの官邸にあったというもので、十字架にかかる前のイエスがこの階段をよく利用したことでエルサレムから運んだらしい。
二000年も前に、かの地からローマに大理石の階段を運んだという話はロマンがある聖なる階段のコピーがここカンブリにあるのだ。
それと同じ「二八段の階段を上ってみたい」私の好奇心はどんどんふくれあがっていった。
神聖ローマ帝国皇帝カール五世のお気に入り町に着くと、車はどこにでも停められるようになっていた。
広場は季節外れのためか、閑散としていた。車から一歩外に出たとたん、やはりここでも、まるで中世の時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。
建築物の保存状態から、この町がいかに繁栄していたかがわかる建物やアーケードはこぢんまりとセンスよく建てられている。
歴史書によれば、一三〇六年にサン·フランチェスコ修道院がこの地に置かれ、一三九○年には病院が建設されたという。
ローマからシエナや

 

要職につくこと

ファルネーゼという名前が目についたので調べてみると、あの神聖ローマ帝国皇帝カール五世がイタリアのファルネーゼ家に嫁ぐ娘マルゲリータのためにこのカンブリを持参金の一つとして与えたということがわかった。
このファルネーゼ家はローマ法王パウルス三世、枢機卿、パルマ公などを輩出したことで知られるイタリアの貴族で太陽の沈まぬ国マルゲリータは、偉大なるカール五世を父に、ある。
を造ったフェリペ二世を弟にもつ名門の家柄であった。アブルッツォの小さな町カンブリをお気に入り歴史書の大人物が、の一つとして選んでいたとなると、その魅力が一層増してくる。
一体当時のカンブリのどこが気に入ったのだろうか。もちろん風光明媚な土地であることは確かである。だが、それだけではなかった。ビジネこの土地は古代から伝わる毛織物と陶器の産地で町が潤っていたのだ。
ス的に見ると、多くの人が祈り、磨り減らした階段聖なる階段だが、一七七二年に時の法王クレメンス一四世がこの町にローマと同じさてここではオリーブの階段を真似て作らせたものだった。
階段の素材はローマでは大理石だが、そのオリーブの木でできた階段は町外れにあった木だという。
細い石畳の路地をぐるぐる回りながらようやくその場所に着くと、そこは行き止まりの絶壁であった。
聖なる階段の建物は高台のエッジに建っていたのだ。張り出している道から下を覗くと高所恐怖症ならずとも少し怖かった。
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イタリアからぽっかりと浮いた島のようなものなのだそうだ
だが、見渡すかぎり谷間が広がっていたのを見る自然の要塞が町を守っていたのだとわかる。
と、10月ともあってか、観光客は一人もいなかった。木のドアをそっと開けると黒光りした聖なる階段が見えた。天井や壁や階段のすべてが古色蒼然と黒ずんでいた。土足厳禁であ跪いて上るかどうか悩んだが、先を急ぐ私に心の余裕はなかったため、る。
結局木の階段と並行して作られている石の階段を上った。老いも若きも、富める者も貧しい者もゆっくりと一段祈りをささげてきた証は、上るごとに、すり減った階段を見れば一目瞭然であった。
厳格に守られてきた信仰の尊さが伝わってきた。罪が赦されるすべての階段を跪いて上ってというならば、ゆっくりと上ってみたいと密かに思う人は少なくないだろう。
「童話アトリの鐘の世界へ」アトリカンプリの町を後にして次に目指したのはアトリという町であった。
なぜアトリを選んだかといえば、母が読んでくれたアトリの鐘という童話を子供の頃、思い出したからである。
その町がイタリアのアブルッツォ州に存在していたという驚きは、一瞬にして子供時代の懐かしい思い出と記憶を呼び起こしてくれたのだった。
イタリアのもう一つの風景カランキバッドランド私はカソブリから国道をひたすら南下した。

 

イタリアならではの斬新なデザインだが

南下するに従ってまばゆい太陽が降り注ぎ、白然の恵みを強く感じ始めた。
そして、だんだんアトリの町が近づいてきた、その時である。私は一瞬背筋がゾクッとした。カランキバッドランまるで月世界のような異様な風景とめぐりあったのである。
それはおおやいしと呼ばれる景色であった。日本の大谷石のような石質で、トゥーフォイタリア語でドとぎょうかいがん呼ばれる凝灰岩の渓谷が不気味な岩肌を見せていたのだ。
ノコギリの歯のような鋭い造形がいくつもいくつもある。これは長い歴史の中で、雨水で浸食された斜面の跡であった。真っ青な秋空と細かなひだが入り込む複雑な茶系の地形が絶妙なコントラストを生み出していた。
これは雨が大地を破壊した芸術品といえるだろう。イタリアの自然とは、糸杉のある穏やかなトスカーナ地方と決めつけていた私は、これでもかと次々に現れるカランキに打ちのめされた。
まるで大自然のテーマパークともいえるだろう。広さは三六〇ヘクタールもあるという。東京ディズニーランドの七個分の広さに相当すると聞けば、カランキがどれほど広範囲にわたるかがわかるだろう。
厳しい自然がアブルッツォ人の気質を育む何千年とこの厳しい自然と常に対峙してきたアブルッツォの大地に住む人々。
何百年、彼らは精神的にも肉体的にも強くなくてはならなかったはずだ。
そして心が優しくなければ隣人たちと結束して暮らすこともできなかっただろう。

ローマ帝国皇帝カール五世が

山岳地帯に住み続けるための条件は、一つの団体のような形で集落を築き上げ、お互いを守ることだった。
イタリア人をして、アブルッ「強くて優しいツオ育ちの人をフォルツァエジェンティーレ」と呼ばしめるのはこうした自然環境からだった。
現在、世界自然保護基金に選ばれ、アトリのカランキはWWFこれほど険しい地形は世界でも特異とされる。
アドリア海の名前の由来アドリア海さて、ヴェネト州のアドリアと話は変わっての名前の由来についてである。
アトリいう町が有力だが、の方が信憑性があると唱える歴史家も多い。
実際このこの町はアドリアADRIAハドリアHADR!ローマ人に征服されるまでラテン語であるいはと呼ばれていたからだ。
なるほど、イタリア半島の南北のちょうど中心に位置するこの町Aは、アドリア海からわずか一〇キロメートル内陸に入ったところにある。
紀元前に港があった場所町に着いて、私が真っ先に向かったのはアドリア海が一望できる場所であった。
この町の近くを流れるヴォマーノーは一直線にアドリア海へと注がれ、その先は砂浜しか見えないが、古地理書にまとめたストラボン(紀元前六三年から紀代ギリシャや地中海沿岸各地を旅して元1111年ごろ)によると、そこには大きな港があったという。
紀元前後の話で、海底にその遺跡が残っているのだ。


ローマからシエナや 人ごとながら心配していたら ローマからシエナや