イタリア語で旧市街をチェントロストリコ歴史地区と呼ぶが

シセ·デッレ·モナケもずばり方言で「修道女の後者のおっぱい」という意味らしい。
「トレモゆるりと流れる時間の中で伝統をやわらかく包んできた歴史を振り返り、私は一口を食べた。
鼻に粉砂糖がついて店主に笑われた。陽気なイタリア人たちの笑顔がこのンティ」町にはある後日談だが、二〇一二年九月一七日、東京九段下にあるイタリア文化会館で開催された日本私はこのグアルディアグレーレのレストランで修業した一人の日本人料理協会のイベントで、シェフ、金田俊之氏に偶然出会った。
ミシュランに掲載されている1つ星レレストランはヴィッラ·マイエッラで、この町から1キロメートルほど離れたところにある。
ストランアブルッツォについて調べているとこの町を有名にしている一つがこのレストランなのだ。
言った私に、彼は次のように語ってくれた。二001年から六年までの五年間、”ヴィッラ·マイエッラ”で料理修業したことがあります。
きっかけは、ローマで料理見習いの仕事を探していた僕に、ワイン界の重鎮であるジャンニ.マシャレッリ氏がグアルディアグレーレに素晴らしいレストランがあり、そこでアルバイトをローマからそれほど遠くない場所でしたし募集していると知人を通して教えてくれたのです。
近くにはマシャレッリ氏のワイナリーもあり、ソムリエの僕にとって自然も堪能できる最高の場所でした。
レストランではシェフたちの湧き上がる情熱の中で豚や羊の美味しい料理を沢山ならいました。
もちろん、豚の飼育、ハムなどの製造にまでかかわらせてもらいましたマシャレッリ氏とはアブルッツォ州のワインを世界的に有名にした彼の話に出たジャンニ·「アニエッロ·アッラ·ブ功労者だった。

イタリア語会話にも余り出ていないし

ローマ市内の魅力スポット歴史を彩った名所

次回、グアルディアグレーレを訪れるときは名物の仔羊の炭火焼き」やr仔羊のラグー添えキタッラを是非食べたい。
ラーチェアブルッツォ国立考古学博物館キエティアブルッツォ州のどの山岳遠くからキエティの町が見えたとき、やはりと思った。
私はへばりつく地帯の町にもいえるように、この町も一つの丘にべったりと家が鳥の巣のような旧市街を作っていたからだ。
旅のフィナーレアブルッツォ州の旅のフィナーレを飾るにふさわキエティの町に足を踏み入れたその瞬間、しい悠久の時が流れる魅力的な古都だと感じた。
キエティの旧市街の麓にはアドリア海に注がれるペスカーラ川が流れている。
北へ-五キロほど走れば、そこはもう紺碧のアドリア海が広がっている。
背後には、二五00メートル級以上のマイエッラ山塊とグラン·サッソ山が町を見下ろし、まるで子供を守るかのように聳えていた。
こうした自然の要塞がすべてそろった標高三三○メートルの丘に、現在約五万四000人の人びとが住んでいるという。
旧石器時代まで遡れる歴史ある町前述のイタリア文化会館元館長ドナーティ氏から、この町の有力銀行の頭取ディ·ニージオ市長ディ·ブリミオ氏を紹介されていたのでさっそく連絡を取った。
この日、氏と、市庁舎にいたディ·ブリミオ氏は会議が始まる前の慌ただしい最中であったが、私が日本から来たといぅことを聞き、幸いにも快く応対してくれた。
そしてキエティまで足を運んだことを喜び、何冊か歴史書をプレゼントしてくれた。
さっそくいただいた歴史書を読んでみよう。なんと、めまいがしそうであるキエティの歴史は実に旧石器時代まで遡れるのであった。
古代民族が不便な山頂に都市を築いたのは、一つには軍事的防衛もあったが、もう一つはマラリアの発生源となる沼地を避けたためだともいわれている当時住んでいたと考えられる古代人の分布を単純に分けると、アペニン山脈を境に、地中海側にはアフリカやスペインと貿易をするエトルリア人やラティ-人、そして反対側のアドリア海側にはギリシャやユーゴスラビアやトルコと貿易をする山岳部族のウンブリア人、ピチェ11人、サビニ人、サムニウム人、そしてマルチー11人となる。
キエティはアドリア海側と交易するマルチ-11人の領土だった。

 

ミラノを支配していた直後と言うことになります


イタリア女性の服装日本の女性の服装は実は世界的に見ても極めて開放的で

ギリシャ人の大植民政策マグナ·グラエキア紀元前四世紀になると、交易相手のギリシャ人たちがこの地に活路を求めて移住してくる。
ギリシャ本土が不毛となり、肥沃な土地を求めて地中海やアドリア海に四方八方に散ったので「大その一つがこの地であった。
ギリシャ人はつぎつぎに植民市を築き、ある。南イタリアにギリシャ」を造っていく。このいにしえの大植民政策をマグナ·グラエキアと呼ぶがある種の移住なのだ。
ヨーロッパや日本のような帝国主義的植民地ではなく日本風に言うならば、縄文人が弥生人になっていくイメージである。
当然、ギリシャ神殿もあちこちに造られだが、ローマ人の領土もこの頃から各地に拡大してくる。
ローマ人はローマから直線距離で行けば約1100キロ先のアドリア海沿岸地域を制圧したかったのだ。
アドリア海沿岸地域はトルコやユーゴスラビアからの物資をイタリアに持ち込む重要な拠点だったからである。
そのたローマ人はなんとしてでも険しいアペニン山脈を開拓し、めには道路を整備しなければならヴァレリア街道なかった。
それがローマの道と呼ばれる半島を横断するの一つであるローマ·ギリシャ文明の古代遺跡だが、その行く手を阻む敵がいた。
アペニン山脈一帯に住む前述した山岳部族の人びとマルチ-11人-であるローマ人はなかなか征服することができなかった。
落人伝説彼らは手強く、日本ののように、山岳部族は攻めても攻めきれないアペニン山脈に逃げ込んでは生き延びていくからであしかし、る。
マルチ-11人は他の部族に先駆けてローマ市民権を得ることを条件についに口マ人と和解することとなった。
ローマ人はキエティをアドリア海の本拠地と定め、先住民であるマルチ--一人を大切に扱いながら町をローマ化していった。
アクロポリスその一例は、と呼び、キエティの一番高い場所をそこに三つのギリシャ神英語表記でいえばジュピター神殿ジュノー神殿殿を建てたことである。
その三つは、ミネルヴァ神殿紀元後1世紀になると、である。この三つの神殿は少し低い場所に移される「マルチを歩くと見ることができる。
現在でもその遺跡は通り」円形劇場が建てられた。その円形劇場があった場所には現在神殿の跡地アクロポリスには、ラ·チヴィテッラという名前の考古学博物館が建てられ、古代の遺跡が展示されている。
ローマ·ギリシャ文明の歴史の跡を数多く残しながらも、キエティの町は、マルティーニ人マルチ-ニとしての誇りを捨てず、町が誇るマルチーニ町の随所にの名前を残している。
劇場もその一つである。
とにかく赤ん坊を連れて町を歩くと注目されることおびただしい

相手がどこの国の人であれアブ»ッツオ考古学国立博物館へマルチーノ通りという、日本でいえば銀座通りのようなおしゃれな通りをしばらく歩くとトレント·トリステ広場にぶつかった。その広場から延びる一一月四日通りをまっすアブルッツォ国く行くと、噴水のある円形の庭園に辿り着いた。
どうやらここにお目当てのがあるらしい。そこに、戦士カペストラーノの本物が飾られている立考古学博物館あののだキョロキョロあたりを見渡すと木々で覆われた高台があり、階段から下りてくる数人の観光客が見えた。
あの森のなかだ階段を一五段ほど上るとそこには品の良い三階建ての重厚なクリーム色の館があった。
博物館というよりは貴族の邸宅といった趣だった。博物館の前庭に玉砂利が敷かれており、その上をザクザクと音を立てながら入口に向かっていった。
胸の鼓動が高鳴るのは、ロマンをかき立てる謎の遺跡がまもなく見られるからだった。
戦士カペストラーノの彫刻博物館のガラスのドアをゆっくり開けた。
戦士カペストラーノがどこに展示されているのか係員に尋ねると、すぐに案内してくれた。
まっすぐ歩き右の部屋に入った。その瞬間である。戦士が私をじっと見据えたのだ。台座にまっすぐに立つ二〇九センチメートルもある長身の私はようやく憧れの男性に出会えたような、そんな気分になって一瞬身動きができなかった。
人間の肉体を描く、いわゆる人間賛美に溢れていたからだ。この彫刻は一九三四年に畑を耕していた一人の農民が発見した。実はそこは古代人の墓ネであった。二五00年以上前から地中の黄泉の国」「戦士クロポリスに住んでいたはある日地上に偶然現れたのだった。
エジプトの王の墓のように深く掘られた穴に納められていたのだ。
ミラノ市内から一時間足らずの場所なのだが
ミラノ市内から一時間足らずの場所なのだが

ミラノに来た頃

終点のティラノでレティッシェ鉄道に乗り換え道が技術指導を受けたという山岳鉄道でラクイラ県カペストラーノで見たレプリカの本物に、この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない、山岳部族の堂々とした姿を私はこの目で見た白いギリシャ彫刻に匹敵する力強い先住民の姿であった。
のである。それは、この目もくらむ生命力ような二五00年以上の歳月を生き抜いてきたにただただ圧倒され、足の疲れも忘れて、戦士と向き合った。
アブルッツォで産出されるやわらかな色調私はじっと石材は、とあたたかい質感が特徴の石灰岩ライムストーンであった。
自信に満ちた量感がみなぎっていメキシコ人のようなつばの広いまん丸い帽子をかぶっていたが、実はこれは戦闘用のヘルメットの機能ではなく、まるい形をした盾らしい。
そして、頭の上にはトリのトサカのようなものがついている。両側には槍を持ち、顔はマスクをつけている。そして右手は胸にあて、左手はお腹にあてている。抱きかかえているのは剣と斧である。フンドシのような腰布で前をかくし、胸と背中にクロスするヒモを身にまとっているだけであった。
ほとんど裸状態である一体、誰がなぜ、この彫刻を作ったのだろうか。
よく見ると左の槍のそばにという端正MAKUPRIKORAMOPSUTANANISRAKINEVIIでみごとな文字列が刻まれていた。
係の人に聞くと、それは文末から読み、意味は「私は彫刻家のアナニスで、ネヴィウス·ポンブレイウス王のために捧げる」だという。
この戦士は、実は山岳部族ヴェスティー11人の王様だったのだ。
戦士の足をみてみよう。そのふくらはぎがまるで馬のように筋肉がしっかりついている。おもふっくらしている。
テレビ·ラジオ以外の生身の人間で喋っているのを聞いたのは一人だけ

シエナの富豪ピッコロ-ミニ家は

の姿が具現化されてこの彫刻には山岳地域に生きる力強いしりいるだけではなく、彫刻家としての技術の高さもあるだからこそ、二00九年四月にラクイラで開催されたサミットで、わざわざキエティの国立博物館からこの戦士カペストラーノを丁重に運び出して会場に飾り、世界にアピールしたアブルッツォ·戦士カペストラーノなのである。
のである。イコールいまだ日本で正式にがいつの日か日本に来ることを夢見てこの場を去った。
紹介されていないイタリア男アブルッツォ国立考古学博物館の建物は、キエティ市の市長も務めたことのあるフェランテ·フリジェリ男爵が一八三〇年に邸宅として建てた三階建ての館であった。
その館の中には、いにしえの世界が息を潜めて横たわっていた。背後に雄大なグラ一周すると、館をぐるりとン·サッソ山が見えた。
ヴァリニャーニ広場「天正少年使節団を送り出した宣教師」きっと同じ景色を眺めていたにちがいないひとりの神父の四00年以上前に、この場所で、ことを考えながら、今、私はキエティの丘に立っている。
遠くに見えるなだらかな丘は、空と海の青のなかにとけあっていた。
宣教師ヴァリニャーノその神父とは、故郷キエティを離れ、遠い日本という未知の国に向かう決断を自らに課したアレッサンドロ·ヴァリニャーノその人である青年ヴァリニャーノは、このキエティのどのあたりに住み、どのような心の持ち主だったのか。
彼はなぜそれほどまでに日本人に優しかったのか。そして慈悲深かったのか。安土桃山時代にはるばるこのキエティからやってきて、命の危険を知りながら日本にキリスト教を広め、日本の歴史を変えた織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の武将たちに多大な影響を与え、さらに日本人の少年四人に夢をたくして日本で初めての外交使節団「天正少年使節をヨーロッパに差し向けた宣教師とは、一体何者だったのか。

余勢を克ってアフリカ大陸のカルタゴの本拠地に乗り込みます