何事も経験と行くことになった

九月二〇日と名づけられたこの場所の中央に、スルモーナの市民たちが誇る大詩人オヴィディウスの銅像がすっと立っていた。
そのまわりを囲んで身振り手振りでイタリア男たちが井戸端会議している光景があった。
いつも思うのだが、日本とは違って外でおしゃべりする男たちの姿はイタリアではおなじみである。
マイ·フェア·レディ変身物語その昔、を見たとき、といえば、映画主人公で花売り娘のイライザが貴族のお嬢様に変身していく姿を見て、羨ましく思ったことがある。
自分とは違う何か別な者になってみたい、変身願望というである。
その欲望をこの町で生まれた詩人オヴィディウスがローマ時代に描いていたのだ。
「中世の町を色濃く残す町」と前述したが、実はスルモーナ鉄道の幹線が交差する重要な地点だったため第二次世界大戦で激しい爆撃を受け、徹底的に破壊され、瓦礫の山となった町だっ復興に向けて市民たちはかつての町の様子を示す絵などを参考にして再び石を積み上げ見た。
事に再現したのである。そして、どの建物の背後からも雄大なマイエッラ山塊の景色が見えるのだ歩いていると、アーモンド砂糖菓子コンフェッティを売る店がいたるところで目に入る。
それもそのはず、コンフェッティこの町こその発祥の地だったのだ。
このお菓子はイタリアでは結婚式になくてはならないものだが、最近では日本の結婚式でもフランス風にドラジェと呼ばれてよく使われている。
コンフェッティの店はあちこちにあり、鮮やかな色とりどりのセロハンで包んで花にみたてて形作って売っていた。
町の規模はラクイラと同じ程度だろうか。11世紀の水道橋の向こうには、雄大な山と青い空が広がっていた。
それはマイエッラ山塊のなかで一番標高が高いといわれる一七九三メートルのアマーロ山である。
スルモーナは山に抱かれた町という印象が強かった。同時に、信仰が生まれ育った土地だということもわかる。今もその魂が受け継がれていると感じるのは教会に向かう人びとの姿からである。
通りを歩くとここに住む人たちがどれほどこの町を大切にしているのかがよくわかる。
まるで絵葉書のような町で、ゴミ一つ落ちていない力らだ。

  • うっかり携帯電話を使いながら運転中に警察に見つかれば罰金ものなのだが
  • 新教皇グレゴリウス七世として選出される
  • イタリアのバールに入るとまず目に付くのが店の奥に横に長いカウンター

イタリアの所有権を主張してきた経緯にある復元されたルネサンス期の建築私がこの町に入ったときに通ったナポリ門一四世紀に造られたものだが、は元々それもやはり忠実に再現されたものだった。
町の中心地にある一四世紀ルネサンスの時期に建てられたアンヌンツィアータ宮もしかりである。
その玄関の彫刻のデザインが素晴らしかった。今では博物館になっている。この町から出た有名な画家がいる。シルヴェストロ·デル·アクイラという名で、彼はフィレンツェのレオナルド·ダ·ヴィンチの師であったアンドレア·デル·ヴェロッキオの弟子であった。
つまり、シルヴェストロとダ·ヴィンチは同じ師匠についた兄弟弟子なのだ。
ラクイラで見たあのサン·ベルナルディーノ大聖堂内部にあるひときわ目立つ墓石が彼の代表作である宝石箱のような町ペスココスタンツォ標高一三九五メートルもある山の上にあるペスココスタンツォは、ルネッサンス様式の美し建築物が建ち並ぶ小さな町だ。
観光客目当ての店がないここに住む人びとはよく自然に耐え、頼るべきは己の信仰だけであった。
標高一三九五メートルの山頂で暮らすとなれば、一筋縄ではいかなぃ寒さを相手にしなければならないからだ。
強い意志をもって暮らすことでは誰にも負けないだろう。「宝石町の入口は坂道を上がった頂上にあった。Cをアルファベットと呼ぶのは

 

ローマーフィレンツェが1時間半

この町に足を踏み入れたとたん、文字通りといえる町の構造に心を奪われた。
まるでおとぎの国に来たかのような、箱のように美しい」絵本の中の町に来たかのようなそんな錯覚にとらわれた。
町全体がこぢんまりしていたからだけだろうか。いや、あまりにもシンプルで静謐な空間がそこにはあったからだ。洗練されたきれいな町並みを歩きながら、この街に特別な愛着が生まれ始めた。
どの路地も広場も年季の入った本格派の舞台装置そのものだからである。
それほど、すべてが美しいのだ。蚤の市がちょうど開かれていた。骨董品を手に取りながら、再び中月に一度あるという観光客目当ての店がない。
静かな丘の上の品のある街であった。世の時代に思いを寄せた。レース編みの伝統を継承する唯一の女性家のあらゆるところに花が植えてあり、それが一層この街を引き立たせていたからかもしれない。
この町の伝統工芸はレース編みであったが、今ではその伝統を伝承しているのは、一人の老女だけであるという。
偶然、私はその女性と出会った。「すみません、いつ頃からレース編みをしているのですか」「子供のときからよ。
マンマから教えてもらったの。昔は、女性はみんなレース編みができたのに、今ではこの町では私だけになってしまったわ」そういうと再び黙々と、まるで機械のように正確に手を動かし、花柄のレースが完成していく。
時間を忘れるほどの感動をもたらした愛おしい町だった。
ナポリ近郊で
ヨーロッパの味覚に少し飽きたら
カラマニコ温泉美しいスパイタリアは日本と同様火山国なので、温泉が各地にある。
その数は優に100を超える。体のトータルケアを行うスパここペスカーラ県にあるカラマニコ温泉は標高六五0メートルに位置し、マイエッラ山塊国立公園の麓にある。
この温泉の歴史は古く、一五六七年にドメニコ会の宣教師がこの場所を発見し、それ以後今日までアブルッツォの人びとに愛されている温泉場である。
お風呂好きの日本人にとっても、一度は訪れたいイタリアの温泉だろう。
日本のようにのんびり浸かるというよりは、むしろ健康増進のために鉱泉を利用し、トータルケアを行うスパで、三五度から三八度と日本より温度が低い水質はアルカリ性の硫黄泉である。
美肌効果や冷え性改善、リウマチ治癒などその効果を掲げる温泉は数々あるが、このカラマニコ温泉は皮膚病や喘息に良いという。
また温泉水を飲むと利尿作用があるという。専属ドクターも常勤している格調高いラ·レゼルヴという五つ星ホテルもある。
酸素治療やジャグジー、そしてヒーリングブールがあり、豪華なスパが売りのホテルだ。
レバ「ワインを造る王妃マルゲリータ」オルトーナペスカーラを出発し、左にアドリア海を見ながら国道16号線の海岸線を110キロメートルほオルトーナという港町が見える。
港を守るかのように堅牢な要塞が目に入ど走っていくとるアドリア海を眺めながら遊歩道を散策「パッセ車を降りて少し歩くと、なんとも雰囲気の良い南国を思わせる遊歩道が見えた。
という名で、バルコニーのような手すりがどこまでも続いていた。ジャータ·オリエンターレ」キラキラと海面が輝く薄いブルーの浅瀬を見ながら、スタジオジブリの昔、紅の豚で描かれた海を思い出した。
人の心を洗ってくれるあの海と空である案内書をめくると、オルトーナは作曲家フランチェスコ·パオロ·トスティが生まれた場所とあった。
歌曲に門外漢の私がトスティの名前に親しんだのは、盲目のテノール歌手アンドレア·ボチェッリがセレナータを歌ってからであった。
そのトスティの故郷に私は足を踏み入れた。

 

ローマの中心を流れるあのテベーレ河に投げ捨てたのでした

トスティは前のページで述べたペスカーラ出身のダヌンツィオをこよなく愛し、音楽院在学中から一九一六年に亡くなるまでダヌンツィオの詩に曲をつけたという。
その数は三三にも上るのだ。同じアドリア海を見て育った二人は、共に故郷を離れてしまうが、共通するのはふるさとをこよなく愛してやまない哀愁を具現化したことだろう。
日本トスティ協会を奈良で立ち上げたオペラ歌手がい帰国後、日本でトスティを讃えてることを知った私は、その山口佳恵子氏に電話で思いを尋ねてみたトスティ生誕一五年だった一九九六年にオルトーナにあるトスティ協会にお手紙を書きました。
その翌年に私はオルトーナを訪れましたが、素晴らしい風光明媚な土地柄に驚きました。
日本とイタリアの文化交流として、邦楽をオルトーナに紹介し、その後日本トスティ協会が組織化されました。
奈良がトスティ歌曲国際コンクールのアジア予選大会の場所になったのです。
これからも奈良とオルトーナの交流が深まることを祈っています血で染められた111月美しい海を見ていると信じられないが、この場所は第二次世界大戦でドイツ軍と連合軍カナダとの戦闘で銃撃が飛び交う戦場の舞台であった。
それも真冬の一九四三年一二月二〇日から二八日の九日間に集中し、血で染められた一二月と呼ばれる戦いであった。
それは一体どのようなものだったのだろうか。ソ連との東部戦線で鍛えられたドイツ軍が、若いカナダ兵たちを待ち構えていたのだ。
カナダ軍はオルトーナの建物を制圧しながらも、一五00人以上の若い兵士が銃撃戦で亡くなった。
民間人も巻き込んだ悲惨な戦いであった。

イタリア中に一躍有名にさせたのは

美しい歴史と自然に感動する場面のあちこちに残る戦争の生々しい傷跡がこのオルトーナにはある。
たとえば、カナダ人戦没者を慰霊する墓地がそれを物語っている。青い澄み切った空の下で、あの遠い日に起きた出来事はまるで嘘だったかのように、海の美しい輝きは今も昔も何一つ変わっていない。
そのギャップを感じながら、時を超えて今につづく静寂に満ちた景色を私は忘れることができなかった。
では、オルトーナの歴史を振り返ってみよう。ワイン造りに適した地アラゴン要塞と呼ばれ、オルトーナの要塞は、ナポリ王国を領有したアラゴン王アルフォンソ五世が一四四八年に建てたものだった。
その後、このオルトーナは時を経てイタリアの貴ファルネーゼ家に嫁いだオーストリアのマルゲリータ王女に買い与えられた。
族一五八二年のことである。カンブリという町でもすでにファルネーゼ家について触れたテラモ県のが、ファルネーゼ家はイタリアでもローマ法王を輩出するほどの家柄であった。
カンブリの町は陶器や毛織物で潤っていたが、マルゲリータはこの土地にもビジネスチャンスがあると考えたのだこの紺碧のアドリア海を見ながら彼女が考えたのは、この地で伝統的に受け継がれてきたワイン造りだった。
このアドリア海沿岸の地域やその内陸で生まれるワインはまたたく間にヨーロッパの宮廷祝宴で好評を博したという。


Cをアルファベットと呼ぶのは ちょっと値段は高かったのだがローマへの熱い憧れを若くから抱いていた もとから日本からの留学生も多い街だ