イタリア最大級の国際空港です

私は特定の宗教に思い入れがあるわけではないが、強い意志で故郷を立ち去ったヴァリニャーノが心の底にずっと住み続けていた。
彼の並外れたバイタリティはどこから来たのか、実はアブルッツォに来た最大の理由はその源泉を知りたいがためであった。
アブルッツォ国立考古学博物館戦士カペストラーノとヴァリニャー私はで見たあのを重ねてみた。
二五00年以上前の山岳部族の強い精神は悠久の時を経ても変わらず、ヴァリニャーノに受け継がれていたのだろう。
ローマ帝国崩壊後のキエティ西ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう。
幸いにテアーテ公国ビザンチン帝国が東ゴート族を滅ぼすと、が建設される。
キエティにキエティがデアーテと呼ばれていた安定した時代である再び歴史の流れが一気に変わるのは、五世紀から九世紀にかけて酉ヨーロッパを支配したゲルマン系のフランク王国の侵入であった。
キエティは八01年にフランク王国によって破壊されてしまう。外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていく。
時が流れ、一二世紀になるとあたり一帯の領土はラクイラの章で登場したあのフェデリコ11神聖ローマ帝国になる。
世のノルマン人も住むようになるとキエティは経済的にも文化的にも落ち着き始めた。
一五世紀になるとテラモ県の章でも触れたナポリ王国ができ、スペインのアラゴン王アルフォンソ五世の統治下で、キエティは一層華やかな歴史の光景に包まれていく。
われらのアレッサンドロ·ヴァリニャーノの登場であるここで、ヴァリニャーノの銅像案内書を読むと、彼の没後四00年を記念して二六年に銅像が建立されたとある。
私はヴァリニャーノに会うためにその場所に向かった。
テレビ·ラジオ以外の生身の人間で喋っているのを聞いたのは一人だけ

イタリアの町は戦災のあとも昔の通りに復元された町並みが多いから

早速マルチ-11通りヴァリニャーニ塔という名前の塔があり、さらに進むと五差路の広場ににぶつかった。
ヴァリニャーニ広場とあった。そこも「ヴァリニャーノとヴァリニャーニと名前が似ているわ」そう思いながら、まるで恋人を探すような青春時代の気持ちになって、さらに歩いて行った。
銅像が立つところは、現在では「ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世広場」と呼ばれ、一八七〇年のイタリア統一の立役者、初代国王ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世の偉業を称えて「サン·ジュスティーノ大聖堂広場」からこの名に変わったキエティのメイン広場であった。
だが、残念なことに広場は駐車場になっていたので、広場というイメージはなかった。
車が邪魔をして、私は銅像をすぐには見つけることができなかった。
あたりをぐるりと見渡すと、キエティ市が誇る「サン·ジュスティーノ大聖堂」がそびえ立っていた。
一一世紀に遡る古い教会が最初の核になって、拡張や再構築が行われ現在の大聖堂になるわけだが、支配者が変わるたびにその様式や聖堂内部も新しく生まれ変わっていく姿は、イタリアの古いどの教会にも当てはまる。
澄み切った青空の下に、ヴァリニャーノの銅像を見つけ駆け寄った。
銅像は大きな館を背にして冷気の中に、すくっと台座の上に座っていた。
台座には彼の足跡を辿った地図が刻まれていた。そこには日本地図もありKYOTOがあった。私は大理石に刻まれた文字に指で触れた旅路の果てに辿り着く安楽の地というような大げさな表現もあてはまる感じで、なぜかこの銅像から安らぎを得られるような気がしたのだった。

 

ローマ帝国側につく町との戦いの歴史でもあったわけで


薬局には良くお世話になったが

エピローグヴァリニャーノとの対話ヴァリニャーノの像の前に立つと放心状態になり、私はしばらく動けなくなった。
気が張り詰めていたのか、旅の終わりを実感したのか、気の遠くなるような安堵感を覚えた。
像の後に建つ大きな館は現在市庁舎として使われているが、そこはヴァリニャーノの生家だった。
市庁舎の前は今も昔も人や物が行き交う広場が広がっていた。その生家を守るかのように彼は広場を見つめていた。長い時間、私は像の前に佇みヴァリニャーノを見つめた。気がつくとすでに日が沈みかけ、西の空が真っ赤に焼けているのに気がついた。
自分にとってアブルッツォの旅は意味深く大きな体験だったけれども、最後にこの像に会うためにアブルッツォに呼ばれたのかもしれないとさえ思えるような、大きな、大きな体験だったのだ。
読者には奇妙に聞こえるかもしれないが、手を合わせてここまで無事に来られたことへのお礼をヴァリニャーノに述べると、私はどうやらマジックにかかってしまったようだ。
突ヴァリニャーノの声が聞こえてきたからである。然、「あなたは私の愛した日本人ですね。はるばる私の故郷まで足を延ばしてくださり、とても嬉しアブルッツォいです。
ここまで来る道のりは遠かったですか。さぞ、お疲れのことでしょう。の旅はいかがでしたか。あの向こうに聳えるグラン·サッソ山を見てください。人間の心と体を強くする山です」私は感無量。空耳などとかたづけられない霊感につつまれてしまった。そしてこう彼に尋ねたのだった。この台座にあなたのお名前が彫られています。アレッサンドロ·ヴァリニャーニ、と。
仕事が終わったのでちょっと早めにアンコナ空港に着いてしまった

イタリア経済のバックボーンだとも言われている位あなたの名前はヴァリニャーノだと思っておりましたここまで質問すると、胸からジーンと熱いものが込み上げてきた。
短いながらもこれまで歩いたアブルッツォの旅が息の抜けない連続だったからかもしれない。
そうです、私の家族の名前はヴァリニャーニです。イタリア人の名字のほとんどが、最後に複数形の.1で終わるのに気づいていますか。
ですから、ヴァリニャーニが本名です。だが、私はあるときから”ヴァリニャーノ”とサインするようになりました。
イタリア語の単数の語尾はで、女性名詞なら”ナ”男性名詞なら”ノ”で終わります。
聖職者は家族をもつことは許されません。家族をもつと、まず人は家族を愛してしまうからです。神だけを愛し、その神を人びとに広めることが使命です。天涯孤独で使命を全うするという自分への証が”ヴァリニャくだったのですそうだったのですか私はヴァリニャーノの語る言葉に妙に納得してしまった。
そして続けてこう尋ねた。「ヴァリニャーノ神父はどうして四00年以上前に、日本に来ることをきめたのですか」「それを語るには、何から始めたらいいのでしょうか……」あまりにも長くなります。
彼の話を聞いた。これまでかき集めた彼についてのつぎはぎだ私はじっと彼の目を見つめ、らけの情報がよどみなく彼の口から流れ出てきた。
その日は休日になる慣習だ
その日は休日になる慣習だ

ローマ皇帝ハドリアヌスによって建設された

こちらも3度目の結婚をなすアグリッピーナ私が生まれたのは一五三九年二月一五日、ノルマン貴族の血を引くヴァリニャーニ家はこのキエティで最も由緒ある貴族でした。
イタリアの貴族階級は、学問に対する情熱は大きく、私の父ジャンバッティスタ·ヴァリニャーニも、息子の私に優れた教育を与えてくれました。
学問こそが大きな美徳だと父は考えられる人でした。あの険しい二五00メートル以上のグランサッソ山やマイエッラ山塊を登山することも教えられました。
子供のときから青年になるまで父と一緒に何度も登った山々です。草木も生えないような岩肌を、苦しくても登りました。あなたがこのキエティに来るまで何度も見たあの山々です。あなたはロッカ·カラッショに登りましたか。あそこは太古の地球の化石を見るような場所です。黄昏時にひとりで登るときは神の審判の前に一人引き出された罪人であるかのような、何とも、言えない恐れを感じます。
あなたはどうでしたかはい、確かに私は怖くて震えました。美しいと思う以上に目がくらみ、足がすくみました。カ·インペラトーレにも行きました。大自然に飲み込まれそうで、逃げだしたくなりましたンボ頂上まで歩いて行くのは辛いが、そして生と死が見える体験が人生における陰と陽、光と陰、そうした体験が、できます。
人間には必要なのです。死を感じない生活では生を感じにくいはずです。冒険は人生を豊かにする妙薬です。だからこそ、死を感じた時に、命の存在や生きることへの力が湧いてくるのです。
記憶の奥底に眠る恐れが呼び起こされ、山に登ると、恐れお私はこの偉大な自然の神秘にあふれるアブルッツォで生まれ育ち、ののくことができます。
知恵や生きる力を学んだのです。そんなある日、父がこういいました。息子よ、キエティの大司教ジョヴァンニ·カラファは私の親友だ。彼はいずれ法王になる男だ。·ピエトロアレッサンドロ、これからはラテン語、騎士道精神、おまえの体は十分鍛えられた。
人文主義、そして法学をしっかり学び、彼のような立派な聖職者になってほしい。
まず名門パドそのためにも、ヴァ大学で法学を学ぶことが最初だ、と私は彼の話から、子どもの自然体験における親の役割のありかたを学んだ。
それと同時に子供にエリートコースを進ませたい親の気持ちも痛いほどよくわかった。
親が子供に古今東西、託す夢は大なり小なり同じだからである。それがいつかどこかの時点であきらめ、あるいは子供の自由を尊重しなければならないと知るのである。
アレッサンドロは一九歳でパドヴァ大学を卒業し学位をとって地元に戻ってきた。
こうして、だが、激しい気性の彼はキエティのような地方都市で一生過ごしたのでは自分の力を発揮できないと感じてしまう。

イタリアではようやく同盟軍が結成され

ペルージャとの戦いの場へと向かった

幼いときから少年アレッサンドロの才能を知る父親の親友カラフア大司彼の父が予想していたように、教は、法王に選ばれパウルス四世となっていたさっそく大学を卒業した彼をローマに呼び寄せアレッサンドロをよく知るパウルス四世は、自分のそばで研鑽を積ませた。
誰もがアレッサンドロの順風満帆の船出を信じて疑わなかった。だが、しばらくすると法王パウルス四世は高齢で死んでしまう。トップが交代よくある話で、すればトップについていた部下たちはきまって左遷させられる。
それと同じように、法王のグループはいっせいに交代させられ、アレッサンドロの出世も露と消えてしまった。
だが、彼の教養の高さを知るひとりの枢機卿がいた。そしてアレッサンドロにこう切り出した。「君は法王庁の裁判官になる資質をもっている。だが、裁判官は聖職者からしかなれない。君の神学の学位をパドヴァ大学に戻ってとってきなさい」もっている法学の学位だけでは足りない。
「わかりました。聖職者になってまたローマに戻ってまいります」ここで言う神学の学位だが、神学と論理学だと思いがちだが、実は、イメージとして哲学、数学、物理学、天文学、形而上学を含む幅の広い学問であった。
神父になるためには神の存在を弁証できる能力が求められ、神が創造した自然科学を研究することが必要であっかつ、た。
だが、大学に再び戻ると、きまじめでいながらも情熱的なアレッサンドロは、これまで張り詰めていた糸がきれたかのように、一人の女性に恋をしてしまう。
その名はフランチェスダンテがベアトリーチェに一目惚れしたのと同じであった。
カーナ·トローナ。私は、どうしてもこれが真実かどうかヴァリニャーノにそのことを聞いてみたかった。
恋の話は遠い昔々のことです。二三歳の時、再び大学生活に戻ると、自由を手に入れたと思い込みました。
がむしゃらに勉強してきて、息が切れてしまったのかもしれません。
私は初めて彼女も私を愛してくれました。いやそう思っていただけだったのかもし女性に恋をしました。れません。美しいフランチェスカ-ナは私以外の男ともつきあっていたのです。

ある職種の専門家が同じ業界の企業を転職して行くのはごく普通に見られる