ローマだけは出張で来たことがない

台にしたと知ると、同じラクイラ県にあるカステル·デル·モンテという町は、あのジョージ·クルーニー主演のラスト·ターゲッラクイラはフェデリコ·フェリーニ監督のの舞台であった。
でも登場する。ト友人ペトラが最も感動したアブルッツォのベスト五の一つも、標高一四六〇メートルにあるロッカ·カラッショだそうだ。
イタリアの要塞の中では最も高いところにあるという。私は勇気をもってペトラの感動を自分も味わいたいと思った。カラッショという小さな町があり、「ロッカ·カラッ山道を走ると最初にその先にという廃墟になった町がある。
その町の山頂に映画の舞台となった城砦があるショ」カラッショに到着したとき、雨が激しく降り始めたので雨脚が少しおさまるまでバールであと一息でめざすロッカ·カラッショの山頂に到達できるというコーヒーを飲むことにした。
のに、このまま走ると危険だと、バールで働く青年に言われた。

  • 西暦七六年に
  • なんと聖人の死からわずか四年でできあがった
  • イタリアでは公共の場は全て禁煙となっており

目立つだけでなくトラブルを招く原因ともなりますのでコーヒーを飲み終え、どうしたものかと迷っていると外を見ると少し小降りになっていた。
「このぐらいの雨なら大丈夫だよ。天気がまた変わらないうちに行くといい」青年はと教えてくれた。私は小雨を背にして足を大きく踏みだした。地元ならではの情報は、こうしたバールに入って知るものなのだ。頂上に建てられたロッカ·カラッショに向かう途中、左手に谷間を望む絶壁が見えた。
カ六ナーブを曲がるたびにこれから向かう山の道筋が垣間見られた。
箱根の山を登るような急なカーブで、さらに道幅が狭かった。だんだん山頂に近づくと、円筒状の塔を四棟もつ四角い崩れた城砦が見えた。
あともう一息、と自分を励ましながらようやく山頂に辿り着いた。辺りには誰もいない。好ガイドブックに野生のオオカ奇心が恐怖心に変わり回れ右をして引き返そうかと一瞬迷った。
ミが突然現れたとしても不思議ではない場所だと書かれていたからだ。
大パノラマの絶景大きく深呼吸をし、勇気を奮い起こし、車を降りて幽霊屋敷のような城砦に向かって登り始途中で杖になるような枝を見つけ、万が一オオカミが現れたらこれで身を守ろうととっめた。
さに思って拾った。高台に登るのは恐ろしくもあったが、登り切ったとたん、驚くことに怪しげな雲がさっと消え青空が見えたのである。
それは本当に信じられないできすぎたストーリーであった。まるでモーゼの海割れの奇跡のようで、この現象に私は身震いした。
目の前に度のパノラマが広がり、実に圧巻であった。その迫力のある大地に立ちながら、三六二000年、いやそれ以上の歴史を靴裏で感じることができた。
たった今、それは、宇宙船でこの山頂に降り立ち、その昔この土地に到来して立ち去った地球人の遺跡に出会ったような世にも不思議な光景だった。
いったい現代に生きる私たちは何者なのだろうか。私はこの大地に比べたら、なんとちっぽけでつまらない存在なのだろう。
仕事が終わったのでちょっと早めにアンコナ空港に着いてしまった

 

イタリアでもダイエットに気を使う人が多い肉から略式で

小さな人間である自分を改めて振り返らせてくれるような風景だった。
どこまでもどこまでも続く草原が見える。ここは本当にイタリアなのだろうか。天然の観測所として周囲の丘や谷を監視するのに最適の場所であった。
この場所は、だからこそ、シエナの貴族ピッコロ-ミニ家が最初に目をつけ、後にメディチ家の手に渡ることに私は日本では知り得なかった隠れた歴史の一端を見る思いがした。
なったのだ。「ああ、この絶景を眺めるために私はここまで来たのだ」俗世の欲望に左右される身としては、頭を殴られたような、そんな感覚を味わった。
息つく間もないテンポで動くことに慣れていたからだろうか。自然の感動が私の全身を包み込み、イタリアの果ての風景を見た思いであった。
山の息吹を肌で感じながら下山した。城砦のすぐそばにある六角形の形をした教会が不思議な存在であった。
遠くから歩いまた、てくる羊飼いたちの憩いの場所だったのだろうか。
あるいはこの城砦で働く人たちのための教会だったのかもしれない。
孤高の都市、テラモラツィオ州とアブルッツォ州をつなぐA24ラクイラ県を後にした私は、の高速道路に乗った。
高速道路をイタリア語でアウトストラーダという。ローマから約一六○キロメートル延びているこの高速道路の終点に目指すテラモ県がある。
イタリア全土から高名な画家が集められた
ローマ帝国と教皇の意見相違が絶えなくなるのでした
高速道路のみで他の地域とつながるA24テラモ県の人にとっては命の道であるなぜならば、それはイタリアの首都ローマのティレニア海側とアドリア海側を横断する重要陸の孤島なルートであるばかりか、この高速道路がつながるまでの長い間、まるでのような存在に置かれてきたテラモ県の人びとにとって、他の地域との間に広がってしまった格差を埋める上でも不可欠だからである。
この命の道ともいえるアウトストラーダが開通したのは一九六九年。
このときようやく閉塞立ち寄りたくても孤高のテラモ県が日の目を見たのだ。
それまで、感の漂うテラモ県は立ち寄れない場所だった。その理由は何だったのだろうか。かげろうグラン·サッソ山が雲一つない青空と陽炎のなかで揺遠く前方に二九00メートルの山塊、れていたあの山脈が大きな障害になっていたのだ。
その山脈の下に、私はようやく理解した。現在全長10キロメートルのトンネルが通っている。

 

ローマ支配がこの地域で復活するにつれ

日本の急峻な谷川岳を貫く関越道とほぼ同じ長その工事がいかに困難な一大事業だったかがわかるというものださのトンネルだと知れば、現在はテラモまでしか開通しておらず、アドリア海沿岸まで到達する残りの区間で今も工事が続いている人びとはアペニン山脈をイタリア半島の背骨とたとえるが、その山脈を横断することは、古代ローマの頃から困難を極めていた。
あたりは石灰岩がごろごろ露出する灌木地帯だったからだ。今でもこのトンネルを抜けると、そこは数百年前にタイムスリップしたような景観が広がっている。
余談だが、このグラン·サッソ山を貫通するトンネル内に今話題のニュートリノを測る「グがある。
スイスにある欧州合同原子核研究機構から七三0キロメーラン·サッソ国立研究所」トル離れたこの場所に向けてニュートリノを発射し、到着時間を計測するという実験が行われたところである胸のすくような山岳風景や美しい石灰岩の山肌を飽きずに眺めながら車は東へとひたすら走った。
その風景を見ながら、三〇年前、フィレンツェに1年間住んだときのことを思い出した。
その頃、私はすっと空に向かつて伸びる糸杉が点在する穏やかなトスカーナ地方の風景こそがイタリアなのだと信じていた。
そのイメージが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。冒頭で触れたドイツ人の友人ラが「フィレンツェやミラノやローマだけがイタリアではないのよ」と言った言葉の意味を、私は改めて理解した。
A24これはイタリア半島の号線を通って半島を横断しなければとうていわからなかった経験であるその長いトンネルを抜けてテラモ県の県庁所在地テラモに辿り着いたのは、夕暮れ時であっ夕立は馬の背を分けるた。
トンネルに入る前に降っていた雨はやんでいた。

すでにサン·ジミニャーノとは比べものにならない規模の国家となっていた

とよくいうが、トンネルを越すと天気もこんなに違っていたことに驚かされた。
古代ローマ時代の繁栄そこには優雅で繊細な空間が広がっていた。テラモの旧市街を囲む城壁内に車で入ると、旧市街の広さは、テラモ県の県庁所在地だけあってラクイラに次ぐ大きさであった。
昔のまほの石畳の道が広がり、その上に通行の邪魔にならないように道の端ぎりぎりに、整然と車が並べ実はこれこそがイタリアの風物詩といえるものだ。
車の全長分しかないのではないかてある。と思えるほどに狭い駐車スペースに、皆軽々と縦列駐車する。それは曲芸そのものといえるだ雨上がりの夜の町は、石畳に残った水滴が素晴らしい光の反射を生みだしていた。
この一つ一つの石から歴史の匂いが足元を伝わって体の中にまでしみこんでくるようであった。
そこに湿った空気と混ざり合い、深い荘厳な輝きとなっていた。差し込む光は、夜のテラモの裏通りをコツコツと靴音を響かせながら歩いていると、大きな石の塀が見えた。
一瞬足を止めたのは、巨大であったばかりか非常に古い石の壁だったからである。
過去へと引きずり寄せる力は夜になると一層強くなる。これはいつ頃のものですか?思い切って私は近くにいた若者に尋ねた。「古代ローマ時代の遺跡だよ」さらりと青年は答えた。これはこの町が誇る古代ローマ時代に造られた円形大闘技場であった。


仕事が終わったのでちょっと早めにアンコナ空港に着いてしまった ドイツに次ぐ世界第四位の自動車保有台数を誇る自動車大国 ミラノと南のイタリア流