イタリア人の子ども達と一緒に

どちらをとるのか迫ったときに激しい口論となり、私はカッとなって彼女に暴力をふるいました。
そのとき一四か所もの傷を与えてしまったのです。ただ彼女に一途だったからでした。ヴェネチアに四年間の投獄が決まり、罰金刑も言いわたされました。
私をこよなく愛した父が何も言わずに多額の金を作り、罰金を払ってくれました。
そして1年間に減刑されたのです。若気のいたりと家族も作らず、はいえ、このときから私は一生罪を償うと神に誓いました。
神にのみ奉仕することを約束したのです投獄された話は当時の裁判記録に残っていた。
実際に、父は牢獄にいる息子に手紙でこう書いた。「罪をつぐなったら、また故郷に戻ってきなさい。ここはお前が育った土地だ。待っている」獄中で、ヴァリニャーノは自らの過ちを通して、人間の弱さをとことん知った。
「真の聖職になりたいと心から思うようになった。宗教改革の嵐の中で新しい理念をもって創設され者」刑期を終えたら入学試験を受けたいと真剣に考えた。
たイエズス修道会の存在を知ると、本来ならば罪人は聖職者になれないし、入会もできないが、彼が名門の出であること、人が変わったように真面目になったこと、そして何よりも飛び抜けて成績がよかったことなどが加味され、試験資格を得て合格する。

ローマ時代に遡る

ペルージャの城壁の外では

イエズス会士アレッサンドロ·ヴァリニャーノの誕生であるそして、ローマにあるイエズス会のローマ学院で布教に必要な知識をさらに学んだ。
「お父上、私はカトリック教会を建て直すために本物の神父になって故郷に戻ってまいります」思った通り、ヴァリニャーノは最高の成績で終えると、すぐに教師の地位を与えられ、入会する修練生たちを教える側になった。
この時一緒に学んだ同級生に、のちのイエズス会会長アクアヴィーヴァがいた。
ヴァリニャーノのアジアでのカトリック布彼とは終生の親友となり、教を精神的にも物質的にも支える人物になる。
彼の学生の中にはのちに中国布教の立役者となったマテオ·リッチがいた。
「カトリック教会を立て直す」と言ったのは、この時代、九五ヶ条マルティン·ルターによるの論題がヨーロッパのカトリック教会を脅かしていたからである。
宗教改革の幕開けは、第11章のカンブリという町で綴った、スカラ·サンタが引き金になっていローマにあるあのたなどと誰が想像しただろうか。
聖職者の堕落が誰の目にも映るようになって久しかったとはいえ、伝統的に保持してきた教会組織に対する攻撃が、ルターのいるドイツからアルプスを越えてきたのだカトリック側にも新たな改革が生まれた。
その一つが、ヴァリこうした時代背景の中で、ニャーノが入会したイエズス修道会だった。
イエズス会が果たした役割は、日本にきたザビエルひとりとっても無視することのできないほど大きかった。
教会にはびこるアジアを強化し、悪習を断ち切っていったのだ。イエズス会は改革の情熱に燃えるグループへと成長した。

 

フィレンツェの旧市街にある建物の多くは


ヨーロッパは豊かさをあらわすために恰幅良く

会員は入会時に十分に審議され厳しい教育を受けさせられ、鉄の規律を守った。
その掟を守る者だけが世界に派遣されていく。貞潔という三つの誓願を忠実に守れる人間であることだった。宣教師の資質とは、従順、清貧、神に仕えるためには、一切の願望をもつことは御法度だったのだ。
一度決めたからには生涯守ついにアジア全体を巡察するトップの地り抜く強さを父親に叩き込まれたヴァリニャーノは、位を与えられたのだった。
与えられたというよりは、志願したというほうが正しい。ヴァリニャーノは続けて私に思いの丈を語った。一五七九年七月、日本で言えば天正七年ですが、私は長崎の口之津港に初めて入港しました。
私の目的は、日本におけるキリスト教の布教状況と問題点をローマに報告する役目でした。
すでに一五五二年にポルトガル人のアルメイダ修道士が口之津で布教活動を始めてから、キリスト教は島原半島全体に広がっていました。
領主の有馬義直がキリシタンに改宗すると家来たちが皆これにならったからです。
弟の大村純忠もキリシタン大名になりました。私が到着したとき、島原半島あげて大歓迎してくれたことを神に感謝しました。
豊後大分県のキリシタン大名である大友宗麟にも会いました。
私は一年以上かけて九州の布教状況を見て回ったのです彼はさらに語ることを止めなかった。
私は日本に着いたとき、アフリカのモザンビーク出身の黒人を連れてきました。
力仕事もボディーガードとしても役に立つ男でした。
ミラノから東部のベネト州まで出張に行ったとき

イタリア中部地震の時日本に来て11年経った一五八一年、私はついに織田信長に拝謁できることになりました。
織田信長はいたく黒人を気に入り、家臣にしたいというので、信長は彼を弥助と名づけかわいがってくれました。
信長が築私は彼を献上したのです。城中の安土城を案内してくれたとき、彼から建築に関しての助言をもとめられました。
信長ばかりか、この時代の日本は安土桃山文化が栄え、社会のあらゆる階層の人間が外国から渡来する新しい知識を受け入れようと必死だったのです。
日本人は驚くべき吸収力をもっていました。九州の大名たちがキリスト教に改宗してくれました。日本はいったんトップが改宗三年間で、すると、トップダウンで家来やその家族も従います。
さらに、我々、キリスト教徒の間では一夫一婦制ですが、日本は正妻のほかに愛人をもつ習慣がありました。
私はこれに関しては間違っていると日本の女性たちに語りました。
ローマから車で一時間もあれば来られるのだが昔は自然の要塞がこの町を守り
ローマから車で一時間もあれば来られるのだが昔は自然の要塞がこの町を守り

イタリアでは日本人ツーリストを狙ったスリ

ルールが頻繁に変わることで彼女たちは私の話に感銘し、洗礼を求めてきました。私のメッセージに敏感にこたえるのは男性よりも女性たちでした。日本の女性は子供の頃は父親に、結婚すると夫に、未亡人になると長男に従うという男性への三つの服従がたたき,男性が女性を尊重したり献身的に愛したりすることは堕落だとされていました。
まれます。日本人は強いグループ意識と個人が全体へ服従する意識に支えられています。
私は個人を尊重することを彼らに教えたのです。布教するならば、日本人を特徴づけている多くの美徳を尊重することがとても大事なのです。
たとえば人間の尊厳の自覚や、異なった階級間における互いのホスピタリティそして人を思いやる気持ちや清潔感などがそうです尊重、私は冷静な語り口のヴァリニャーノが好きになった。
宣教師たちが日本人に伝えたかった-とは、人びとの罪や過ちに対して体罰を与えずに、寛容と愛情をもって見守るやりかたであった。
これはキリスト教の原点であった。そして彼の強さは、日本の文化を尊重し、その上でキ考え方だからこそ、ヴァリスト教を理論的に説明できるに支えられていたことだった。
ニャーノは三三年間に及ぶアジアでの布教活動を不屈の精神で毅然として続けていけたのだろう。
三五歳で旅立ち、アジアを回りながらようやく日本に着いたときは四〇歳になっていた。
それ以後、二度と愛する故郷キエティの土を踏むことはなかった。ヨーロッパの土を踏む機会もなかった。彼の言葉にはまだつづきがある。「日本人は世界で一番利口な国民です。理性が教えることに従うことを愛し、我々よりすぐれています……日本人は自分たちの怒りを示すことを極端にいやがります。
こうした態度を見せる者は日本人からは気が短いと揶揄されるのです。
人に対しては非常に礼儀正しいです。
イタリアの都市は生活の中に歴史が生きている町で

ひょっとすると中華料理店がローマに攻め入るべきか…と兵に問うと

彼らは受けた親切に応分の礼を返す習慣ももっています」ヴァリニャーノは外国人の宣教師や修道士に日本の風習に合わせて活動しなければ、キリスト教を布教することはできないと力説した。
天正少年使節団そして、を計ついに辿り着いた彼の結論は、日本初の外交使節団である画し、酉洋の文明を彼らにじかに見せることであった。
少年四人をヨーロッパに送り込み、れによって、少年たちにキリスト教の偉大さを痛感させ、日本での布教に役立てようと考えた当時のヨーロッパは、陽の沈むことなきといわれた大帝国を築き上げたハプスブルクのだ。
家のスペイン国王カルロス1世が活躍した時代で、暗黒の中世から近代へ移る過渡期でもあった。
国家も宗教界も新しく生まれ変わろうとする動乱期だった。ルターの改革によって多くの国が法王庁に背を向け始めた時期に、カトリック諸国はいち早くアジアに目を向け、開拓したのである粘り強い精神を持ちあわせたヴァリニャーノがいたかアジアでのカトリック教会の勝利は、らといっても過言ではない。

ローマ法王を元首に戴く由緒ある国だし