ローマのほかの教会とは違った雰囲気を醸しだしています

確かに、海岸沿いを走りながら右手に見えるなだらかな丘は、どこもかしこもブドウ畑だっ海と山に近く粘土や石灰質が混ざった水分吸収率の高い土壌から素晴らしいワインを造れた。
る条件がこの大地にはあった。赤ワインの代表的なブドウの品種に、豊かな味わいをもつモンテプルチャーノ種がある。
それがこのアドリア海沿いの、なだらかな丘陵地帯で作られているのだ。
昔からキャンティ·クラシコの濃厚な赤ワインが好きだった私だが、いまではオルト-ナという町で造られるはっきリとした強い香りとバランスの取れた赤ワインの虜になってしまった。
アブルッツォのワインは漫画神の雫で紹介され一気に火がついたということを知ったのは帰国後であった。
アブルッツォの濃厚なワインのブドウは、通常一本の木から八房収穫されるところ、二房しか収穫しないという。
凝縮感と甘みをたっぷりと閉じ込めた、その分、なんとも贅沢なワインに仕上ワインは技術のみで造り上げるものではなく、がるのだった。
大地が造るのだということを改めて教えられた。他にもペコリーノ種というブドウの品種がある。羊の乳からできるチーズが名前の由来羊飼いがブドウ畑の間を縫うようにしてラクイラ県から南下するとき、で、このブドウの苗を売ったことが始まりだったという。
アブルッツォ州で飲めなかったこのペコリーノ種の白ワインは帰国後に近くの酒屋で注文した。
照りのある黄金色にまず驚き、飲んでみるとフルーティな香りが素晴らしく、驚くほど深みのある白ワインに造り手の魂を感じるほどだった。
昼と夜の寒暖差が激しいとこうした香り高いブドウができるという。
今ではこの風の匂いや季節の魅力をかぎ取るアブルッツォの感受性に支えられた白ワインの虜になっている。
アブルッツォの名物料理アドリア海沿いの町は漁業で栄えているのかと思っていたが、ワイン造り一つ見ても実は農業や牧畜業のほうが盛んなのだ。
ラム肉やハム、ソーセージの産地として、つとに有名だった。食事は羊料理の種類が多い。アロスティーニに出合ったのは、オルト-ナに着いた日の夕食時であった。
レストランで何を食べたものか思案していたところ、シェフが悩んでいる私に気づきアブルッツォの名物料理”アロスティーニ”を食べましたかと尋ねてきた。
まだだと言うと、「それなら一度羊の串焼きはいかがですか」出された串焼きは、専用炭火焼き台で焼くのだと説明されたアブルッツォでは今日は何本食べたかというのが武勇伝みたいなものでした。

イタリアの都市は生活の中に歴史が生きている町で

スイスはEU欧州連合の一員ではないということもあって

「昔はね、でも一04以上食べるとお腹を壊すので気をつけないといけません」こうして、限られた時間のなかで、歴史」「文化」「食自然が通り過ぎていった。
そしてアブルッツォ州はスローフードを味わえる最高の土地柄といえよう。
ローマ時代から受け継がれている「ペコリ!そのスローフードに認定されているチーズは、ノ·ディ·ファリンドラ」と「カネストラート·ディ·カステル·デル·モンテ」である。どちらも羊乳を入れて固めるのだ。「ヴィーナスが住む修道院」フォッサチェシアオルトーナを後にしてフォッサチェシアに向かって海岸線を走っていると、ところどころの小さい入り江に仕掛けられている怪獣の骨のような桟橋がいくつか見えた。
それはペスカーラでも見かけた、この地方にしかないトラボッコと名づけられたものだ。
トラ複数形はボッキという。トラボツキから捕れた新鮮な魚を調理して出すレス海に張り出したこのトランもいくつか見えた。
ヴィーナスの神殿の上に建てられた修道院これから訪れるフォッサチェシアにあるベネディクト修道会が作った「教会付きサン·ジョヴァンニ·イン·ヴェネレ修道院」は、異教の神殿の上に建てられたとガイドブックに書かれてあった。
古代のキリスト教の教会にはよくあることで、前のページのラクイラ県カペストラーノでみたぁ「サン·ピエトロ教会と同じで、所有者が代わるたびにもともとの·アドゥ·オラトリウム」あった神殿なり教会を壊し、その上に新たな教会を建てるのがイタリアでは常であった。

 

テレビで正面ファサードは無事でしたと繰り返しレポーターが報告したあの建物


ローマだけの特殊な現象だとか

それ異教の風習や祭礼がキリスト教に受け継がれ、現地の宗教と融合していくやり方である。
も、ギリシャの神々を信じていた時代の人びとを改宗させるために、キリスト教は異教の神殿の場所に教会を建立することを積極的に奨励したのだ。
ローマの南東に位置するモンテ·カッシーノという丘の上に五二九年頃に建てられたベネディクト修道会の総本山「モンテ·カッシーノ修道院」も、もともとギリシャ神話の太陽神アボロを祀った神殿があった所に、アポロ像を壊して建てられたものである。
この修道院から派遣された一人の修道士マルティンが、今から訪れる「サン·ジョヴァンニ·イン·ヴェネレ修の基礎を六世紀に作ったのだった。
道院」ドリス式神殿の瓦礫の上にキリスト教徒の祈りの場があるわけだが、を変えても人びとの願いの本質は変えられないだろう。
思うにどんなにヴェネレ「サン·ジョヴァンニ·イン·ヴェネレ修道院」の名前にあるとはイタリア語でヴィーナスのことであった。
このフォッサチェシアの丘には、ヴィーナスの神殿があったのだ。この神殿も、キリスト教のベネディクト修道会に打ち倒され、破壊された。
いまや亡霊のように音もなく沈んでいる。ヴィーナスはギリシャ神話ではアフロディーテと呼ばれているが、ギリシャ神話に登場する紀元前八世紀以前からヴィーナスはこの地に住んでいた人々の信仰を集めていた。
大地の神クロノスが父親ウラノスの性器を切り海に投げ捨てると、その体から血が流れ、血が白い泡に変わったときに誕生したのがヴィーナスである。
海に神々がすんでいた時代の話である。
最初は随分と戸惑ったも

ミラノなどの都市の中心部は殆どが歴史的建造物で占められておりベネディクト修道会は同地を洗礼者ジョヴァンニに捧げ、修道院と付属教会を築いてそこへジョヴァンニ定住した。
それが一〇一五年のことである。とはイタリア語名で、英語ではジョン」、「ヨハネスヴィーナスの名前を消すことなく「サン·ジョドイツ語ではである。
ヴァンニ·イン·ヴェネレ」と名づけられたのは納得するところである緑と花に囲まれた由緒ある修道院フォッサチェシアの町から離れた小高い丘の上にその「サン·ジョヴァンニ·イン·ヴェネなだらかな道を車で頂上までいく途中にオリーブ畑やブドウ畑が見え、はあった。
レ修道院」その美しさに思わず息を呑んだ。頂上に着くと車を修道院の手前にある広場に停め、展望台かトラボツキら目の覚めるようなフォッサチェシアの町とその入り江を眺めた。
先ほど見たも細長く海に突き出ているのがはっきり見えた。生涯でもこれ以上の景色は二度と体験できないだろうと思うほど美しかった。
ペスカーラ生まれのダヌンツィオが死の勝利で綴っているように、トラボツキがまるで巨大グモのように網に掛かる獲物を狙っていた。
美しく静かで厳かな雰囲気に満ちた由緒ある修道院。背後からゆっくりと近づいていった。
ローマ学院で布教に必要な知識をさらに学んだ
ローマ学院で布教に必要な知識をさらに学んだ

コンスタンティウスがフランス/スペイン方面

政権も二つになってしまった飛び出た三つの半円形の祭室をもつ後陣が、息を呑むほど端正である。
周囲は緑と花に囲まれた心が洗われるような優しさに包まれ、余計な装飾が一切ない、ストイックな雰囲気が漂ってオリーブいた。
言葉を失うほど厳かで、はるばる遠い日本から来て見学する価値は十分ある。
いんとんの畑に囲まれた修道院は隠遁には格好な土地であった。ここでの精神生活はさながら雲上の天国にも匹敵したにちがいない。
教会の中へこの修道院のガイドブックを買うつい近づいて教会の門を開けようとしたが閉まっていた。
でに、近くの売店にいた女性にいつ扉が開くのかと尋ねると、「神父が住む裏庭の建物にまわって、そこの呼び鈴をならしてみてください」と親切に答えてくれたそれほど観光地化されていない場所にちがいない。
神父がいるのかどうか、それも心配だったがとにかくここまで来た以上、中を見たいのは誰も同じだろう。
すみません、日本から来たのですが、教会の中を見せてもらえませんか……インターフォンにすがる思いで来意を告げると「少ししたら行きますから、教会のドアの前で待っていてください」淡々と神父は答えた。
引き返して待っている間、教会のドアの前でこの教会の説明書を読ん「かつてこの場所には紀元前八〇年に八角形の形をしたヴィーナス神殿がだ。
そこにはやはりあり、と綴ってあったのだ。その入口はアドリア海に面していた」今はその姿形はまったくない。
ただ一つだけあるとしたら、石塀のかけらである。
ミラノから東部のベネト州まで出張に行ったとき

ローマの真ん中

しばらくすると、教会のドアが開き、中から神父が出てきた。薄暗い教会に入ると、教会の内陣に淡い光だけが差し込んでいた。だが、祭壇付近は暗く大きな空間を歩くには危ないと神父が壁にあった照明のスイッチをパチパチとつけ、思った。
その瞬間、一気に厳かな美しい空間が現れた。一瞬、私はまるでこの世とあの世の中間を漂っているような妙な感覚に襲われたのだった。
「ワインが血になり、パンが肉になった奇跡があった」と記される教会を歩き始め教会地下のフレスコ画教会の正門扉の両側には天使がその誕生を予言したヨハネの物語のモチーフが、実に説得力月の門に溢れた彫像として描かれている。
その扉は美しいレリーフ彫刻や柱頭に飾られと呼ばれていた。最盛期には1110人ものベネディクト修道士たちがこの場所で「祈りなさい、働きなさい」人生すべてこれ修行という教えに基づいて、互いに精神的に励まし合っていたという。
とい物質的な援助などを通して人々とつながっていた。う精神で信者たちと接し、日本からわざわざ来たのを知ってか、「地下をお見せしましょう」と神父が案内してくれた地下のクリプトに一歩下りると息を呑む程の衝撃的なフレスコ画がアーチがかかる素朴な天井に描かれていた。
純粋に祈りのためだけの空間がそこには横たわっていたのだ。フレスコ画のそばにはこの修道院がイタリアの有力なアブルッツォ州の銀行の援助で常に修復の対象になっているとブレーと書かれてあった。
見事なまでに保存された簡素な半地下の窓から外を眺めると、中庭の回廊が見えた。
これまで多くの修道院の回廊を見てきたが、これほど魅力的なオリエント風な空間を見たことがなかった。
この修道院のハイライトはこの回廊だった。中庭はバラが咲き誇り、パームの木が端正に植えられ、回廊の天井を見上げるとテラコッタの世界であった。
ここでのんびり青空を見ながらベンチで本を読みたかったが、まだまだ先がある旅なので、次の町、ランチャーノに向かうことにした。
アブルッツォ州の海岸沿いの町を巡ってきたが、海は潮風と磯の香りがするものと思っていたのに、アドリア海はただただ澄み切った水の匂いしかしなかった。
そして、無色であるはずの水が、限りなく多彩であった。アドリア海は人間の五感に訴える場であった。

イタリアは日本と比較すると