イタリア語でカフェと言えばコーヒーのことですが

決定的に違う点は、ミトラ教は男性のみで、キリスト教は男性も女性も信者になれたことであるその後ローマは三世紀末に軍人皇帝の時代が終わり、四世紀にローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが専制政治を確立し、キリスト教を公認する。
最終的にミトラ教とキリスト教の二つの宗教がローマの国教を争った結果、それに打ち勝ったのが女性も入信できたキリスト教といわれている回文はミトラ教徒からキリスト教徒に受け継がれた秘密のコードだったのではないだろうか。
そう考えると合点がゆくのだった。迫害から逃れるために回文にカモフラージュした言葉実はそこにこそ永遠の神を信じる教えが隠されていたと私は考えたい。
石に刻まれた回文の歴史もう一度この「サン·ピエトロ·アドゥ·オラトリウム」の歴史を振り返ってみよう。
この教会は遡ること八世紀にロンゴバルド族の最後の王デジデリウスによって建設された。
正面の扉口のアーチにはラテン語で八世紀と刻まれているからである。
だが、再び何らかの理由で破壊され、一三世紀に再建される。破壊された教会の素材は再利用された。だが、ミトラ教の神殿がもしそこにあったとしたら、それよりさらに前に八世紀の前に教会が建っていたとも考えられる。
考古学的証拠はないがゆえに、そのことに関しては誰にもわからないが、新しい宗教を布教するときは、その土地にすでにある異教信仰の教義を入れ込みながら、その土地の人びとを改宗させていくのが当時のやりかたであったからだ。
石材唯一の手がかりは、何百年、何千年過ぎようとも朽ちることのないである。
建築資材はその場所に転がっていた石材を再使用することは大いに考えられる。
もし、回文が刻まれた石材が八世紀にすでにあったとしたら、教会を再建する石工たちが材料の一つだと思って組み込んだとも考えられる。
逆さまに壁に埋め込んだとしても不思議ではない。その行動を現代の私たちはどう評価するのか、彼らの思いはどのように受け継がれているのだろうか……。
それは、それぞれが考えることなのだろう。そこで、私なりに、このカペストラーノのがなぜ逆さまに壁に埋め込まれたのかを考えてみた文もしかしたら、ミトラ教の儀式を受け継いだキリスト教徒の一人が、天上のである太陽」「回文を合わせ鏡のように対応させようとしたのかもしれない。

外界の激動など無関係であるかのように

さらにその後のオットー1世が帝冠をうけたことにより誕生した神聖

北部が寒く南部が温かいという日本とよく似た状況です

ナポリ王国をそのまま引き継ぐかたちになったと地上のそうすることで、現実と未来を映し出そうとしたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。
門番、アンジェロの人生回文「サン·ピエトロ最後に、このの謎に迫る重要なヒントをくれた·アドゥ·オラトの門番から聞いた話を付け加えて、カペストラーノを後にしよう。
リウム」教会の前で待っていた私に、彼はアンジェロだと名乗りでて、急に身の上話をし始めたので回文と教会を早く見たい気持ちを抑えながら、私はじっと彼の話に耳を傾けた。
ある。謎の0年間もブエノスアイレスで過ごし、つい最近生まれ故郷のカペストラーノに戻ってきたん戦後、仕事がなくてね。
このアブルッツォを離れてアルゼンチンに出稼ぎに行ったんだ。だ。歳を取ったらだんだん故郷が恋しくなって、三年前に戻ってきたけれど、アルゼンチン人の妻は一緒に来なかったよ。
生まれ育った場所を離れるのは、エネルギーがいるね。ふるさとは、やはりいいもんだよ。寂しいよ。家族がいないとねでも現実は厳しいね。たったの九五〇人の住民しかいない町に戻った彼の心の置きどころはどこにあるのだろうか。
皆、人生を背負って生きているのだと思った。二〇世紀に入るとアブルッツォは、後でわかったことだが、空前の移民をアメリカ、アルゼブラジルに出し過疎化を招くことになる。
ンチン、カナダ、特に、一九00年から一九一四年の間にアブルッツォの人びとは貧困から抜け出すために、故郷を捨てていった。
アンジェロはかつての移民のひとりだったのだ。それが、現在の過疎化を招いた理由の一端なのだろう。

パレルモも蛮族の属領となった

イタリアの歴史が身近になっていくのを感じ始めた
余談だが、二〇一三年三月、新法王に選ばれたアルゼンチン出身のフランシスコ1世はイタリア系移民の家庭に生まれた。
法王の両親もアンジェロと同じように、当時、活路を求めて移住したイタリア人だった。
鷲は舞いおりたカンポ·イ、ペラトーレ山岳地帯に行く場合、一番気になるのは天気である。
安定する夏の時期でさえ、一日中無風快晴を望むことはできないのだ。
ましてや10月も半山に霧がかからないことを祈るだけである。ば過ぎともなれば、この日は小雨が降り注いでいた。これから行くグラン·サッソ·ラーガー国立公園に位置す「カンポ·インペラトーレ」の天候が心配であった。
る標高二100メートルの頂上まで行けるかどうか、すべては天候次第であるイタリアのチベットだが、私はどうしてもこの大草原の頂上に行きたかった。
頂上にある赤い壁のホテルに第二次世界大戦の最中、ムッソリーニが幽閉されたからであるその彼をドイツのヒットラーが巧みに救出させたという資料を読んでからというもの、そのホテルをこの機会に是非この目で見たいと思った。
長い道のりをぐるぐると走りながら、ようやく頂上まで上がった。気温は一気に11℃に下がっていた。標高11100メートルに建つホテルもやはり霧に閉じ込められていた。
ここまでどれほど走ったかわからない。緑に覆われた日本の山々を見慣れた私には不思議な風景であった。ゴツゴツした石灰岩の山塊が迫り、まるでチベットの大草原を思わせるような光景が横たわっていたのだ。

イタリアの都市は生活の中に歴史が生きている町で

日本という国はあらゆる面に於いて平等化を推し進め

食事の時も如何にも観光客向けのレストランは避け
山頂で小雨が雪となったとき、私はこの大草原でさまよう子羊になったようで心細くなった。
決して快適なドライブではなかったが、秘境への冒険気分を満喫できた。
同時に、大都会の東京から来た私は、車の往来もないこの霧の立ち込める幻想的な大草原で、車ごと大自然のに飲み込まれるような気分に陥った。
出会ったのは、のっしのっしと悠然と横切る放牧夏であればハイキングを楽しむ人々で活気があふれる場所だといされた馬の群れだけである。
う。冬であればスキー客たちの姿で賑わう。訪れた10月は中途半端な季節であった。ヒットラーによるムッソリーニ救出作戦三〇年以上も前になるが、その頃の私はドイツ文学に目覚めてドイツ語と格闘する学生であった。
ドイツ語の発音が英語と違ってとても日本人に向いていただけでなく、歴史も好きだった。
特筆される一つに一九四三年七月二五日の事件がある。その歴史の中で、それは、イタリアの首相であったムッソリーニが首相の座を追われて逮捕された日であった。
連合軍のシチリア上陸作戦により、イタリアはきわめて不利な状態になり、ついにイタリアのファシズム評議会はムッソリーニを解任する、と決断したのであるそしてムッソリーニはひとまず軟禁された。
その場所がこの「カンポ·インペラトーレ」の頂上にあるホテルだったのだ。
隠密にことを運ばなければならなかったために、このホテルの従業員全員も山を下りることが禁止された。
同盟を結ぶナチス·ドイツに知られることを恐れたからである。しかし、ナチス·ドイツの対応は非常に素早かった。

イタリアでは常

イタリア料理の修業を開始したのが日本
ムッソリーニの居場所の暗号文を読み解き、軟禁されたまさにその翌日にヒットラーが盟友ムッソリーニを救出することを決定したのである。
ドイツ空軍はその命令に従った。ホテルのある二九00メートルのグラン·サッソ山付近を飛行するのは困難を極めた。
着陸グライダーができないと判断したドイツ空軍が考え出した案は、であった。
訓練された兵士たちがグライダーから舞い降りて、ムッソリーニを救出することに成功したのである。
これは前代未聞の出来事だった。まるで小説のような劇的なストーリーである日本でもこの事件は映画や小説の題材にされている。
三0年以上前にドイツ文学をかじりだ父が映画鷲は舞いおりたを観た話をしてくれたのを覚えている。
それから何年した私は、か過ぎ、宝塚歌劇団星組により、グランサッソの百合が上演された。
ミュージカルこちらホテルの娘とドイツ人軍人との非恋物語であった。
の内容は脚色され、イタリア社会共和救出されたムッソリーニは、ナチスの後ろ盾でイタリア北部のサロに南のブリンディジで「イタリア王を樹立した。
対する連合軍側のバドリオ政権と国王は、国」国を続投するのである。
イタリアが南北二つに分かれ、政権も二つになってしまった。ナチ山にたてこもりゲリラ戦士となっス配下におかれた北部イタリアでは民衆が武器を手に取り、これが世にいうパルチザンたのである。
である。異郷を感じさせるこの大草原で、私の脳裏にはさまざまな思い出が去来した。

とにかく赤ん坊を連れて町を歩くと注目されることおびただしい

カルタゴから近くはスペイン

地上の冒生涯心に残る大切な思い出の一ページになるのだと「カンポ·イン険心をもって旅をすれば、ペラトーレ」は教えてくれた。
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ドイツ人医師のペトラと1101アブルッツォの大地に力があることをイタリア通の監督たちは知っているのよ日本とアブルッツォの大地震やその後の日本での復興状況などについて、夜通し語り合っていたときに、彼女が目を輝かせて教えてくれた。
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